教養主義

尊敬してやまないS医師のブログより引用させていただく

人間にはその年代、その時期に学ばなければならないことがあり、それをすっ飛ばすと「自分勝手で自己中で感謝もない人間」になるんだろうなあ。

以下

昔、旧制高校という教養主義の温床があって、そこの住人である旧性高校生という蛮族は弊衣破帽と高下駄で闊歩し、昼は寮の万年床に沈殿し、夜は酒を飲んでは寮歌を放吟してあたりを睥睨していた。
(中略)
ただ、前出の定義を認めれば、教養を主義として掲げる意味は次の三つに要約できると思う。
①物事の本質を見据える眼力の育成
②多様な価値観の許容
③己の立場の明確化
ちょうど、幼児期の味覚の発達、学童期の言語の習得など、人が能力を獲得するにはそれぞれ適当な時期があるように、教養の擦り込みにも適当な時期があるようだ。つまり古典、芸術などを吸収・・・できなくても、感受性を高める適齢期が。

過去を振りかえり今僕は、それは思春期すなわち15歳から18歳ぐらいではないかと思う。つまりちょうど今の高校時代ではなかろうか。

その大切な時期が無益とも言える受験勉強に費やされている。
大学の教養課程ではもう手遅れかもしれないし、本人たちは受験勉強で疲弊しきっているだろう。そしてさらに就職への準備過程が優先度を高め、教養など役立たずのお遊びの時間は消えていく。

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